西宮チャペル・甲山・武庫川の風景
                             
  

存在の不思議からの探求 (6月/June)

 普通、人が職場や会合などで「神」とか「神様」という話をすると、まず「ドン引き」されるのが日本の実情ではないでしょうか。「え、この人大丈夫?そういう人?」などと思われかねません。
 それでも、クリスチャンですと言うと、「宗教やっている人ね。」とだいたい理解されて、そのメガネで見てもらえることはあります。
 では、日本人は宗教心のない民族かというと、そうではなく、非常に多くの人が何らかの宗教に関わっていることはご存知の通りです。初詣や盆行事、お葬式なども全て何らかの宗教のかたちです。結婚式やクリスマス、母の日などではキリスト教も良いイメージを獲得していると思います。
 では何故「ドン引き」なのでしょうか?神様というイメージが罰を当てるということがあったり、新興宗教の騙しのテクニックなどを恐れたりということが関係しているのかもしれません。また、既成宗教への信頼感のなさということも挙げられるかもしれません。国家神道の名の元に敗戦の憂き目を見た歴史が、宗教を日本から遠ざけたという側面もあると思います。

 しかし本来、人が自分の生と死を見つめたり、生き方を考えることは真面目なことであり、普通のことです。そしてその延長線上に神の存在があります、
 聖書は神様が存在しているということを前提にした書物です。この世の中には神の存在などいないと思っている人もいますが、聖書は「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。」とかなり厳しい指摘をしています。
 また神様自身、自己紹介をされていて、「わたしはあるというものである。」と旧約聖書のモーセに語りかけています。
 すなわち、神とは存在している方、意識を持つ人格を持たれた方だという事です。そしてその証言を聖書は1600年以上かかってまとめました。また、聖書が完成してから2000年間もその主張は世界で読み継がれてきたのです。
 一方、私たち人間も、それぞれが「わたし」という意識を持った存在です。この「わたし」という存在はまことに不思議なもので、考え出したらキリがないほどの存在です。実際人間は自分のことをほとんど知らないと言っても過言ではないでしょう。
   

 「わたし」は自分のことを一番よく知っていると思っていますが、客観的な自分の姿すら毎日見てはいません。鏡に映る自分を見ることは出来ますが、それも左右真逆の虚像です。自分の話す言葉がどんな影響を与えて、どんなに人を励ましたり、どんなに人を傷つけいるかも正しくは測れません。「わたし」の知っている「わたし」は実は、非常に限定的なものなのかもしれません。
 聖書は、神という絶対的な方に出会うまでは本当の意味で自分を知ることができないと語っています。「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」とイエス・キリストは語られました。ひとり子の神が人間の現実を解き明かし、永遠のいのちを解き明かし、私たちがどういう存在であるかを解き明かしています。
 人間は自分の力だけでは、神様に近づくことが出来ませんが、神の側から人間に近づいてくださいました。それがイエス・キリストの存在だと聖書は語っています。あなたも教会へ来て聖書の御言葉に耳を傾けて、自分を探求してみませんか?

 牧師 神戸 博央

(説明) 
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Since 2001.08.12
Renewal 2005.06.12


最終更新日:2009/06/14 23:28
               
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